torsdag 13. mai 2010

ノルウェーの高等教育 (Higher education in Norway)

ノルウェーの高等教育 - その歴史と現在

ノルウェーの高等教育概観
 まず、ノルウェーという国の特徴について一言述べておきたい。
ノルウェーはEUに加盟していないが、歴史的・地理的・文化的にはヨーロッパの一部である。従って、価値観や概念にはEU諸国に共通する部分が少なくない。しかし、福祉国家である北欧諸国のもつ特性もある。
現在、ノルウェーには大学が7校あり、すべて国立大学である。このうち、オスロ大学は1811年に創設され、最も長い歴史を持っている。私が勤務するベルゲン大学の創設は1946年で2番目に古い伝統をもっている。
1980年代になると、大学の数は4に増えた。また、大学とは別に、研究を主たる目的としないHochschule(カレッジ)がいくつかあり、そのなかには大学への昇格をめざすものもあった。実際、博士課程の設立などを通じて、大学に昇格したものもあり、現在の7大学となっている。
ノルウェーでは、社会福祉国家の特徴として、義務教育から高等教育まで原則として無償となっている。これは、家庭や本人の経済的状況によって教育を受ける機会が制約されないことをめざしてのことである。しかし、この無償制にも問題がないわけではない。これについては後で述べることとする。

高等教育の背景・歴史
 ノルウェーの高等教育は、フンボルト主義を伝統的に引き継ぐものである。特に、文学部、社会学部ではその傾向が強い。
 高等教育においては、BildungとWissenschaftが教育の基本とされている。Bildungは「育てること、育成」を意味するが、これに対してWissenschaftは「サイエンス、科学」を意味すると考えてよい。
学生を「育てる」ということの意味を考えるとき、まずは主体性、自律性、批判的思考能力、理性、熟成、学問の自由などの価値が重視される。具体的には、文献をただ読むだけではなく、その正当性を問い、批判的に読ませること、どのように反論できるかを考えながら読ませることが重要だとされる。
 フンボルトが重視した「コスモポリタンを育てること」は、単に知識を増やすだけではなく、知恵を与え、意識を育て、世界や社会がどうあるべきかを常に考えさせることを中心的価値としていた。従って、学生個々人はもとより、大学も個性をもち、自律して、社会の要求や動きに左右されない独立した存在でなければならないとされた。「学問の自由」という言葉のひとつの意味は、こうした大学の自律性である。
 フンボルトの時代、大学は一部の人のものであり、そのことが「学問の自由」の実現を支える要件でもあった。しかし、大衆化した現代の大学では、フンボルト主義の理想と現実のギャップが生じている。

高等教育改革への声
1970年代になると、大学に対する「学生の声」が高まりをみせるようになった。大学は、教授から学生への一方的な知識伝達というスタイルを見直し、変革することを求められるようになった。
 そこでは、役に立たない知識を得ることに価値が見いだされなくなっていった。また、民主主義が理想であるなら、大学も民主主義的になるべきであると主張された。具体的には、学長選挙において学生に選挙権を与えるようにとの主張がなされたり、「教授の多くが年配の男性であるのかなぜか」との疑問が発せられるなどの動きが顕著に見られた。
 学生の主張は、大学と教育は社会から離れたものであってはならないということであり、大学も社会の一部であるとの認識がこれを支えていたと言えよう。同時に、大学の自律性がその閉鎖性に堕する危険性を指摘する声もきかれた。こうした学生の声はフンボルト主義の「現代的発展」とも言えよう。

大学の変容
197080年代はフンボルト思想とその批判とのせめぎ合いの時期であったと性格づけられる。
一方では、学生運動の結果として学生参画が実現する。具体的には、学生に学長選挙などの選挙権が与えられ、大学の委員会など、公的な場への参加権も与えられた。
 しかし、実際に参加する学生は少なくなっているという矛盾を抱えることにもなっていく。文学部、歴史学部ではそうした伝統が守られていると言えるが、他の学部では形骸化する傾向も見られる。
 1990年代に入ると、学生数の増加とともに、学生の態度も変化し始める。大学教育は人間として育っていくために必要なものとみなされるのではなく、卒業後の仕事のために受けるもの、経済的利益を実現する手段とみなされるようになっていく。「学問の自由」として高い価値を体現していた「自由」という価値は、「さぼっていい」「宿題しなくてもいい」という「自由」に堕落する。授業料の無償制がこうした傾向に一定の拍車をかけているという見方も存在する。
 こうしたなか、1999年のボローニャ・プロセスでは、比較可能な学位制の確立が提起され、評価基準や国際的に共通の単位制を採用することが求められるようになった。
 ノルウェー政府も2003年に“Quality Reform”を実施して高等教育の改革を図る。
 この“Quality Reform”を大学教員の眼から見ると「大学が高校に近付いた」ようにみえる。実際、試験・宿題が増え、学生への指導も増えた。
 “Quality Reform”の指導理念には教育の市場化があり、そのため大学はサービス業のひとつとみなされているようである。そこでは、教員は学生に商品としての教育を提供することが求められ、学生は単位を「生産(produce)」するとされる。研究者の発表する論文も生産物とみなされる。
また、高等教育が無償であるため、学問に向いていない学生も多く入学してくる現実がある。しかし、大学の「生産性」を維持するため、そうした学生も留年させず、卒業させてしまう現実もある。
このように見ると“Quality Reform”の実体は“Quantity Reform”であると言えるかもしれない。

フンボルト主義の現代的様相
以上のような状況のなかにおいても、フンボルトの精神は教室(授業)の中に生き残っていると言える。
 大学では、各教員を中心に、正しい知識を与えるという基本の上に、学問の内容選択や教授方法の工夫などが行われている。また、学生からの質問に対する態度を見直したり、レポートに対するコメントの内容や質を維持することなどが重視されており、こうした教育実践のなかに「フンボルト主義」は現代的様相をもって生き残っていると言えよう。

キー・コンピテンシー
ノルウェーにおいても「キー・コンピテンシー」という言葉はよく使われる。しかし、それは主として義務教育で使われる概念であり、高等教育ではほとんどきかれない。歴史的には「キー・コンピテンシー」の育成(獲得)は高等教育入学以前に達成されるべき課題とみなされてきた。
 しかしそれでも、大学に入学する学生の能力が低下する傾向を前に、大学においても「アカデミックな文章の書き方」などに力を入れた新入生教育を実施せざるを得ない状況が生まれている。
 キー・コンピテンシーとして重視される内容は、「アカデミックな文章の書き方」の他に、「インターネットを有効に使う能力」「文献の使い方」「出典の明示方法」などであるが、これらは本来、高校で教えるべき内容であるとも考えられるし、実際にそうされてきたものでもある。
キー・コンピテンシー概念そのものが変容しているわけではないが、それを育成(獲得)する時期が、高校から大学へと変化してきている。従って、大学教育におけるキー・コンピテンシー概念の精緻化と、その具体的な展開とが求められている。
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この文章は、2009年7月、東洋大学のシンポジウムで口頭発表をしたものに基づいています。シンポジウムのテーマは「シティズンシップがひらく大学教育 - いま、キー・コンペテンシーを問う」でした。文章化してくださったのは教育学科の藤本典裕教授です。この場を借りて、藤本典先生に感謝の意を表したいと思います。

This text is based on an oral presentation I made in June 2009 at a symposium arranged by the Department of Education at Toyô University in Tokyo. The title of my presentation was "Higher education in Norway, past and present". (Publication details here.)

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